スイートテン

 

「ただいまです、ヒロさん!」

 帰宅の挨拶と共に、玄関から慌ただしい物音。普段は穏やかで落ち着いた挙動の野分が、なにやらもどかしげな足音と共にリビングまで一直線にやってきた。
「おう、おかえり」
 なんだ。野分のやつ、この寒いのに妙にテンションたけーな。などと思いつつ、ソファに座って読んでいた本から顔を上げて返す。コートにマフラーを巻いたままの姿で足早にリビングに顔を出した野分が、人の顔を見るなり瞳を輝かせ、
「あの、今日…」
 などと言い募るように話し始めたかと思うと、はっとしたように洗面所を見やる。
 そうそう、そうだぞ。お前、いつも帰宅したらまずは手洗い・うがいじゃないか。別に俺は逃げやしないってのに、何をそんなに勢い込んでいるんだか。
 とは思えども、何かよっぽど良いことでもあったのか、今すぐにでもそれを伝えたそうにしている、もどかしげな野分の表情を見ると、だな。
 一瞬迷った様子を見せた野分が、それでも素直に洗面所へと向かう後ろ姿に、垂れた尻尾の幻覚すら見えるようで、つい笑みがこぼれてしまう。
 まったくなんなんだ、いったい。
 ぱたり、と読み差しの本をテーブルに置いて、野分の後を追いかける。べっつに、たいして広くもない家なんだがな。と己の行動を面映ゆく思いつつ、そんなに伝えたいことなら早く聞いてやりたい気持ちもなくはないわけで。
「で、なに?」
 冬装備を外し、ごろごろと控えめな音をたてている後ろ姿に問いかけると、うがいを終えて嬉しげに振り返った野分が、あのですね、と言いつつ、じゃぶじゃぶとハンドソープで念入りに手洗いを始める。
「今日、1月22日じゃないですか」
「そうだな」
 別に、何か特別なことがある日だったという記憶はないが。
「俺も今日、日付を書いてて気付いたんですけど」
 言いながら、泡だらけの手をすすぎ、ハンドタオルで水気を取り、今度はハンドクリームを薄くのばして塗り込む。洗面所に常備されているそれは、この時期手荒れしがちな野分に、いつぞやのクリスマスにプレゼントして以降、使い切る度にどちらからともなく買い換えるようになった代物だ。
その一連の様子を洗面所のドアに軽く背を凭れて見守りつつ、いったいどこに着地するんだろうな、これは。なんて思いながら話を聞いてやるが、どうにも浮ついていて、わけのわからない記念日みたいなことを言い出しかねない様子だ。
「2021年1月22日なんです」
 うん、それは聞いた。で、何をお前はそんなに浮かれてんだ? という俺のやや不思議そうな表情に気付いたのか、急に冷静になった様子で口ごもる。
「いえ…」
「なんだよ! 気になるだろーが!」
「ほんと、ちょっとしたことかもしれないんですけど…。俺にとっては、すごい発見で…」
 前置きはそこまでにしろよ、野分。何を眦赤く染めてはにかんでんだ。
 あまり気の長い方ではない俺が、若干ピリッと来たのを察知したのか、ふにゃりと緩んだ口元が言うことには。
「1122って数字が続いてるなー、って」
「は?」
「ヒロさんの誕生日だな、って思ったら、なんだかすごくヒロさんに伝えたくなって…」
 そこまで言って、自分の浮かれっぷりを恥じるように照れ笑いをしているけれど、そんな些細なことでこんなに嬉しげにしているのかと思うと、俺は…。
 洗面所の鏡に映っている、ぽかんと口を空けた呆れ顔がみるみる赤く染まっていく。尋常ではないほどに熱を持つ頬をどうすることもできないまま、そこから目をそらし、ばかじゃねーの、と返すのが精一杯だ。
 何でお前、そんなことで、こんなにも。
「でも、俺にとっては、大切な数字なので」
 俺の内心の疑問に応えるように、野分がそんなことを言うので。
 ばかだばかだ、こいつほんとに…。すっげーばか…。
 こちらに延びてきた両腕に、頬どころか全身まで火照る身体を抱き込まれるまま、羞恥に呻くしかできないのも悔しいわけで。
「…十年に一回かよ」
「ですね。すごく、貴重じゃないですか? 毎年と、十年に一回も、お祝いしたいです」
 俺の苦し紛れの一言にも、笑みを含んだ声音が返ってくるばかりだ。こいつ本気で十年後も同じ事言ってきそうだな、なんてすっかり緩んだ思考でぼんやりしつつ、もぞりと野分の肩口に顔を埋めたところで、ふと思いついて顔を上げる。
「…お前さ、もしかして暗証番号とか…、あっ! やっぱなし! 言うな! 言うなよ!」
「あ、はい。4桁は1122に、」
「言うなっ、つっただろーが!!! このばか! 変えとけよ!」
「え、でも」
「でも、じゃねー。そもそも、生年月日は抜きにしても、もっと並んでない数字にしとけ! そんでちゃんと管理しろ!」
 そんな重要な事まで、ぺらぺら俺にしゃべるんじゃねーよ、全く。
 ぼやきつつ、こいつのこういうとこは本当に危なっかしいな。いつぞや貴重品類の管理に不安を覚えたことを思い出していると、野分は何でもないような顔をして、
「ヒロさんには、知っていてもらって大丈夫ですよ」
 などとほざきやがる始末だ。
「そりゃ、俺だって勝手なことはしねーけど。やっぱあるだろ、親しき仲にも、だな」
「はい、それはそうなんですけど」
「ん?」
 言いながら、腰に回っていた野分の腕が持ち上がり、手洗いの後なのに、すっかり温かさを取り戻したいつもの手のひらが俺の左手に触れる。保湿をされ、しっとりとした指先が、するりと思わせぶりに俺の薬指の付け根、そこにはまって久しい指輪をなぞる。
「俺とヒロさんの仲なので」
 口元に笑みを湛え、さらりと言ってのける野分に、いよいよ絶句するしかないのだった。