かすかな潮風を受け、夕日に染まる観覧車がゆっくりと回っている。
銀時がふだん暮らしている都心からほど遠いこの地へとやってきたのは、中高とつるんだ男友達の結婚式に出席する為だ。長く付き合っている彼女と一緒になるにあたり、式も挙げるというので喜んで招待を受け、男の就職先でもあった彼女の地元での挙式の為、はるばる夜行バスで一晩の距離をやってきたのだった。
バスを乗り継ぎ、式の会場へと向かう途中の見慣れない商業施設。そのランドマークでもあるらしい海を臨む大型観覧車。遠目に見つけたその姿がどうしても気になって仕方なかったのは事実だ。
けれど、二次会の会場がある繁華街へと各自移動するまでの間に、ふらりと輪を外れてまでやってきてしまったのは、招待客同士として思いがけない相手とほぼ10年ぶりの再会をすることになったからだった。
とても素面では居られない気分で、途中のコンビニで調達したロング缶を片手に、その全貌が一望できる歩道の柵に凭れてビールを呷る。
軽く酔いの回った脳裏に、やけに鮮明に思い出されるのは、まだ夏に向かいかける穏やかな気候の頃。抜けるような晴天と、ゆっくりと稼働する小振りな観覧車である。
この手の乗り物に乗ったのは、もう随分と昔。
まだ地元の中学に上がったばかりの頃のことで、いったい何の名目だったかは忘れたが、遠足だかなんだかの学校行事だったと思う。銀時の通った田舎の中学は学区からほぼ持ち上がりのようなものだったので、馴染みの連中と顔を付き合わせて園内をぶらついたのだった。ほとんど寂れかけたような園は、都会のように華やかなアトラクションが稼働しているわけでもなく、ほとんどが散策コースのような趣で、遊園地というよりはちょっとした公園に食事所や遊具が設えられている程度。遊び盛りの子供には全くもって物足りないものだった。
木陰でそれぞれ食事をとり、園内をぶらつくのも飽きて、集合時間まで昼寝でもしていようかと思っていた銀時に、
「あれ、乗りてェ」
と柔らかな日差しの下、思い出の中の観覧車を指さしたのは小学校からの幼なじみである、高杉だった。
*
「乗りてェのか?」
唐突に背後から掛けられた声音は、思い出の中、声変わり前の無邪気なそれよりも、ずっと低く甘やかである。揶揄るでもなく、ただ素直に問いかけるような響きに、なんで来ちまうかな、と苛立ちにも似た思いを抱きながらゆっくりと振り返る。
先ほど式場で見かけたままの姿。彼が家庭の事情で都会の高校へと進学して以降会うこともなく、銀時の知らぬうちに、すっかり大人の男に成長した高杉がそこに立っていた。
久しぶりとか、なんとか。もっと当たり障りのないことは言えねェのかよ。
とは思うけれど、そんなものが今ふたりの間に必要ではないのもまた、事実だった。
黄昏時、沈みゆく太陽を背にした彼の表情は良く見えない。けれど、寸分も違わず思い描ける。まったく何でもないような、すました顔をしているに違いなかった。
「別に……、見てただけ」
ふい、と顔を背け、なるべく気のない素振りを見せたつもりの銀時の横を、高杉は無言のままさっと追い抜いていく。歩道から観覧車乗り場へと続く階段を下りていく後ろ姿。その歩には一切の迷いも見られない。
銀時が着いてこようと来まいが、構わないのか。それとも、着いてくるだろうと確信してでもいるのか。
一度たりとも振り返らない高杉の傍若無人な振る舞いは、あの頃気にくわないものの筆頭ではあったが、どうしたって銀時はそうして置き去りにされるのだけは我慢ならないのだった。
顔をしかめ、胸に湧き出る諦めを飲み干すように、ごく、と温みかけたビールを一口呷る。殊更気怠げに歩を進める銀時の耳元で、かつての自分が観覧車に乗りたがった高杉へ言い放った言葉がよみがえる。
なーに言ってんの、低杉くん。チビとなんとかは高いとこが好きなんですかァ~? こういうのはね、好きな子と乗るもんなの。ちゅーすんぞ、コノヤロー!
今思い返しても恥ずかしいほどに挙動不審になりながらそんなことを口走った銀時に、なんでそうなるんだ、とさらりと黒髪を揺らして不思議そうに小首を傾げて見上げてきた高杉の幼く無垢な眼差し。銀時が乗り気でないと見るや、じゃあいい、とあっさり銀時から視線を逸らし、食事を共にとっていたもう一人の幼なじみである桂を振り返り、乗ろうぜ、などと目の前で声をかけられては堪らず。桂が返事をする前に、慌ててその細っこい手首をひっつかみ、まるで連れ去るような勢いで観覧車まで向かった、あの焦燥感。
思春期真っ盛りだったんだよ。
と内心ふてくされつつ、懐かしい感覚を振り切るように、迷いなく先をゆく背を追いかける。一足先に受付けまでたどり着いた高杉が、おそらくは二人分の支払いを済ませたタイミングで追いつき、飲みかけのビール缶を揺らしてみせる。
「チビとなんとかが高いとこ好きなの、変わってねーってわけだ」
「ほざけ」
結婚式帰りのスーツ姿の男二人。なるべく、酔っぱらいの酔狂に見えればいい。そう思っての軽口だったが、こんなことを言ってしまえば、もうその先も口にしたも同然だった。
多分に後悔しつつも平静を装い乗り込んだ観覧車の車内は、6人定員らしく随分と広々としている。海側を右手に臨む席を高杉に座らせるように、先に腰を落ち着けた銀時の横顔に、物言いたげな視線。それを無視して無言で温んだビールを呷る銀時に、結局何も言わずに素直に向かいの席に座った。
物貰いだの結膜炎だの、左目ばかりにいつもトラブルを抱えて眼帯を手放せなかった高杉が、すっかり視力を落としてしまったことを知っている者は、ごく限られていて。その内の一人でもあった銀時が、彼の視界を考慮に入れて動くのはあの頃の常だった。
長めの前髪に隠れた高杉の左目の様子を見ることはできないが、無意識に動いてしまうほど身に染みついていたものが、時を経て尚、呆気ないほどに簡単に表出してしまったのだ。
けれど、それは今更面映ゆく思う程のことでもない、筈だ。
一言二言、定型の注意事項を伝えた後、ガシャン、とスタッフがドアを閉め、一瞬の揺れと共にゆっくりと地上を離れる。
ひたすら無言の男ふたりを乗せ、ゆらゆらと昇り続ける車内。
喉が渇いて堪らず、ぐびぐびと缶を傾けるけれど、全く酔えるわけもなく。
あの時。
そわそわと落ち着かない銀時の内心など、これっぽっちも気に留めない様子で外の景色を眺めていた高杉の、青空を背にした機嫌良さげな横顔。空の青を映した煌めく瞳と、楽しげに緩んだ眦。淡く綻んだ唇。あっという間の一周で、そんなものばかり鮮明に記憶していた。思い出の中の鮮やかな面影ばかりが蘇って。
いま、茜色に染まる眼前の高杉のすました横顔は、いったい何を考えているのかさっぱりわからない。ただ、頂上へと向かうほどに、車内の張り詰めた空気は、いっそう切実さを増していた。まるで引き絞られた弦から放たれるのを待つ弓矢のよう。
柄ではないけれど、間違いなく、銀時の心の奥深くに大事に仕舞い込まれていた美しい思い出。忘れることも、粉々に砕いてしまうことも、汚れた掌で触れることもできず。ほかの誰とも上書きしたくはなかった。ただ胸に秘め、人に知られることさえもごめん被るほどのそれを、いま、己の手で――。いっそ、銀時にそうさせる高杉に対して、憎らしさすら覚えてならない。
カラカラに乾いた口内に、最後のひと口を呷ろうとする視界の端。二個前の車が頂上へと差し掛かるのを見た。
ごく、とはしたないまでに喉を鳴らした羞恥に眦を染め、一瞬さまよった視線は、けれど吸い寄せられるように眼前の高杉へと照準を合わせていて。
ほぼ同時に、ちら、とこちらに流し見を寄越した高杉と視線が絡まり、ひとつ瞬いた長い睫が震える。次の瞬間、薄く開いたくちびるが何事かを紡ぐのを遮るように、腰を上げた銀時の掌から手慰みにしていた缶が滑り落ちていた。
ガツン、と大げさな音を立てて床に転がったビール缶が、僅かに残ったアルコールと泡をしゅわしゅわと振りまきながら、ドアと椅子にぶつかってガランガランと音を立てる。まるで何かの終わりと始まりを告げるかのような残響をはらんだ車内は、黄昏に染まり眩しいほど。
——初恋の顛末にしちゃあ、お誂え向きに過ぎらァな。
ぐちゃぐちゃに捻れた感情をねじ伏せ、腹をくくった無表情で身を乗り出した銀時の目前に迫った高杉の瞳は、暁に燃える不敵な虹彩を湛えて淡く笑んでいる。
唇まで、あと———