「ヒロさん、ホットミルクです。はい、どうぞ」
「あぁ……、ありがとな」
にこり、とマグカップを差し出してくる野分の笑顔に、有無を言わせない雰囲気を感じてしまうのは、俺に後ろめたい気持ちがあるからだろうか。
ずい、と目の前に寄せられるのは、燦然と輝くハートマーク。そう、野分からのクリスマスプレゼントのそれである。付き合いたてのバカップルでも、浮かれきった新婚家庭でもない俺たちの間で、こういったものを使うというのは、なかなかに気後れするものだ。受け取った時も若干引いてしまった俺が、日常的に使おうとは思えないのは、仕方のないことだと思う。
普段食器棚に仕舞われたまま、なかなか日の目を浴びることのない揃いのマグについて思うところがあるらしい野分は、積極的に使ってはこうして手渡してくる有様だ。口元を引きつらせつつ受け取ったマグに口をつけ、一口ホットミルクを含む。はちみつを少し垂らし、ミルクパンでゆっくりと適温に仕上げられたミルクは、なめらかで口当たりが良く、ほっとする味わいだ。
そして、眼前に整った朝食の席には、こんがりときつね色に焼き上がったトーストと、目玉焼きにベーコン、ウインナー、それからトマトとグリーンサラダ、ベリー系のドライフルーツをトッピングしたヨーグルトが並んでいる。その向かいに腰掛けた野分は、素直にマグに口を付けた俺をニコニコしながら見つめている。
いや、だからな。ウチは、フレッシュに同棲したてのカップルってわけでもないだろうが。
と言ってやりたいのはやまやまなのだが、あまりにも野分が幸せそうに微笑んでいるので、それらの窘めは、出口を失って胸の中でくすぶるばかりだ。
「……、いただきます」
「いただきます」
なんとも言いがたく口ごもった後、ひとまず二人手を合わせて食べ始めることにする。休日の朝食は、二人でゆっくりと。忙しい俺たちの間で、それは最近の習慣となりつつある。取り立てて二人ともおしゃべりという訳でもないので、今日天気良いな、とか、新しいパン屋で買ったトーストが旨くて当たりだな、とか。そういったことをぽつぽつと話しながら食事をする。否応なく視界に飛び込んでくるマグのハートが心臓に悪く感じているなんてことは、あまり野分に悟られたくはないのだが……。
「今日、お休みなので、どこか出掛けますか?」
「俺は特に予定ないけど……、お前がやりたい事なければ、買い物でも行くか」
細々した日用品だとかはともかくとして、春物の衣服なんかをゆっくり見て回るのも良いかもしれない。特に目的もなくぶらぶらして、夜は久しぶりに外食するのも悪くないだろう。そんなことを考えていると、ピリリ、と甲高い電子音が響く。穏やかな朝食の席に不似合いなそれは、野分の病院からの着信音のそれだ。ふにゃふにゃとゆるんだ顔をしていた野分が、一瞬で表情を引き締める。すみません、と一言俺に断ってから、素早く応対するべく席を立った。
はい、草間です。……ええ、そうです。……わかりました。すぐに……。
食卓から少し離れたリビングから聞こえてくるのは、耳慣れたいつもの応対。本日一緒に出掛けるというわけにはいかなくなった事は明白だった。まぁ、これもいつものことといえば、いつものことなのだ。出掛ける約束がふいになったことよりも、休日の野分を呼び出さなければならないほどに病院が大変な状況である事を憂鬱に感じて、思わず手の中のマグを見つめていた。通話を終えた野分が足早に戻ってくる。それから言われることだって、もうわかっている。
「ヒロさん、すみません。急患が立て続けに……」
「わかってる。急ぐだろ?」
すっかり食事を終えたテーブルの上は、後片付けをするだけだ。
「すみません、ほんとうに……」
こういう時、心底申し訳なさそうにされるのは常なのだけれど、先日のクリスマスでウッカリ文句を言ってしまったせいで、ますます野分は恐縮していて。
「そんな気にすんなって。片付けはやっとくし、俺も今日は家でゆっくり本でも読んどくからさ」
「はい……」
努めて明るく言ったものの、出掛ける支度をしながらの野分の返事は、あからさまにしょぼくれた声音で、困ってしまう。これから大変な仕事へと向かうのだから、憂いはきれいさっぱり除いてやりたいと思うのは恋人ならば当たり前のことだ。精神的に縛りすぎては……。そのことを一瞬考えて、すぐに頭を振る。揺れかけた感情を落ち着けるように深呼吸を一つ。ぐずぐずしている場合ではない。唇を引き結んでマグをテーブルに戻して席を立った。
「あのさ」
玄関先まで見送りに立ち、靴を履くために屈んだ野分を見下ろして、思い切って口を開く。
「はい」
「あーっと、……俺が言うまでもねーとは思うんだが、仕事、しっかりな」
そんで。帰ってきたら、俺のこと、大切にしてくれればいーから。
早口に言い放って、立ち上がりかけて中腰になった野分の顔を見ないまま、いってらっしゃいの挨拶を見舞ってやる。そうして、感極まった様子の野分の両腕に抱きしめられてしまう前に、玄関から押し出して鍵をかけてやった。これ以上のタイムロスは望ましくない、……というのも勿論だが、尋常ではなく火照った顔を見られたくはなかったので。
コンコンと扉を軽くノックした後、いってきます、と言い置いた野分の喜びの滲んだ声を背に、ドスドスと足音も荒くダイニングへと戻る。
元はといえば、野分が俺のことを大切にするなどと宣った事に端を発しているとはいえ。そしてその出来事が心に深く残っていたからといって、自分から要求することではないのは確かだった。しかも、咄嗟に口をついて出た台詞ではあったが、これはもう、俺たちの間では、いちゃいちゃしようと言ったも同然の発言だ。
先ほどの己の所業を思えば、胸を張り裂いて飛び出しそうに暴れ回る羞恥心をなだめつつ、こういうときは、努めて日常に戻るべし、とテーブルの上を片付け始める。きれいに空いた皿をキビキビとまとめ、流しへと持って行き、泡立てたスポンジで食器の汚れを落としていく。その後、一枚一枚丁寧にすすいでは水切りラックへと上げ、清潔な布巾で皿を拭いて食器棚に戻す。
一連の作業に無心で取り組むうちに、だんだんと気持ちが落ち着いてきて、最後に残った例のマグカップを手に取った。きゅ、と拭き上げて、こちらも食器棚へ。そして、いつもの場所に二つ並んだマグを、じっと見つめる。
確かに、ウチはとびきり新鮮な同棲したてのカップルってわけじゃない。
でも、このマグを使いたがる野分の様子だとか、食器棚に鎮座するマグの常態を鑑みれば、だな……。
自分に言い訳しながら、ため息をひとつ。そうして、多分に羞恥を含んで躊躇う指先でもって、こつん、と二つのマグを寄せた。
どうしたって気恥ずかしさは否めない。
けれど、互いのハートの片側は、寄り添っていてこそ定位置なのだから。