明け方の夢現

 

 ふわり、と頬を撫でる涼やかな風の感触に、優しく手を引かれるような穏やかさで心地よい眠りから覚めたように思ったのだが、どうにも様子がおかしい。悪夢のネタには事欠かない性質ではあるが、薄白い霧の中、踏み出す地面はふかふかと柔い土を踏むようで、足下に転がる屍、あるいは血飛沫、死臭すらもなく、木の葉を揺らす風のざわめきと微かな草の香りが、霧の向こうから密やかに漂ってくるようである。
 胸に抱いて眠ったはずの男は姿こそ見えないものの、温もりだけは未だ残っているようで、それがどうにも落ち着かない。代わり映えもなく霧に包まれた周囲を眺めつつ、勘の指し示すままに歩を進めれば、少しずつ霧が晴れていき、懐かしい学び舎の幻が現れる。郷愁を擽られるような心持ちで見渡せば、こじんまりとした庭先に人影が二つ。
 見間違えようもない。黒髪の小柄な背中は幼い日の高杉。その向かい、彼に視線を合わせるようにして腰を屈め、亜麻色の髪を揺らす師の姿なのであった。
 なぜだか寝入った際の借り物の浴衣ではなく、黒のジャージの上下に流水紋の入った着流し、いつもの万事屋の出で立ちである銀時とは違い、幼い時分の姿である彼は、何事かを懸命に伝えようとしているらしい。真白い足袋に包まれた小さな踵が、落ち着きなく伸びをしては上下している様に、思わず口元が綻んでしまう。
 背後から忍び寄り、小さく丸い後頭部に手を伸ばす。もう、その欲求を悪戯めいた素振りで彼の膝裏を突いたりなどして誤魔化す必要もないのが、些か面映ゆい。指先がさらさらと流れる黒紫に触れる前に、淡く笑んだ師の瞳がこちらを捉え、次の瞬間には伸ばした手のひらはすっかり縮んでいて。ぽす、と柔く触れた後頭部を一瞬撫でて、間近に振り仰いでくる高杉に何事かを言われる前にサッと両手を己の頭の後ろで組んでいた。そんなこと、もうする必要もないのに、年相応の精神状態に引きずられたのかもしれない。
 そんな銀時を気にも留めていない風に、師の前へと押しやり、何事かを言っているようだけれど、微かな風と木々のざわめきばかりが耳について、聞き取れない。おそらくは、そういうものなのだろうと納得しつつも、ぎんとき、と急かすように小さな唇が己の名を形作るのが、やけにくすぐったい。
 はいはい、と背を押す小さな手のひらに促されるままに見上げれば、記憶の中のままの師の笑顔がいよいよ深まるよう。あの一瞬の邂逅で伝えた事以外にも、言いたいことは山ほどあったのだけれど、そうして一度微笑まれてしまえば、あっけないほどに言葉が霧散してしまうのだった。
 銀時の横に並んで立つ高杉が、一途なまなざしで師を見上げる、その左手をそっと握りしめる。驚いたような視線を横顔に感じながら、同じく師を見上げ、繋いだ掌を緩く揺らし、片眉を上げた不器用な表情で笑ってみせる。おそらくはこれで銀時の意志も感謝も、決意の程も。かつて幼い銀時と共に過ごした彼には、十二分に伝わったに違いない。
 顔を付き合わせてはにらみ合い、剣を合わせ、喧嘩ばかりしていた二人の、その様に唇を綻ばせ、いっそう深く笑んだ彼が、組んでいた腕をほどき、袂から掌を引き出す。
 すわゲンコツかと、弟子の中でも群を抜いて拳骨を貰い慣れた二人が身構えたその頭に、それぞれ片方ずつの掌が柔く触れた。
 言葉はない。
 けれど、その深い安らぎに満ちた微笑みが、百の言葉よりも雄弁に師のこころの内を伝えるよう。二度、三度と慈しむように、ふたりの対照的な髪を撫でさすり、ゆっくりとその掌が離れていく。

 松陽。
 先生。

 思わずふたり同時に呼ばう声は、音もなく。けれど確かに師に届いたに違いない。慈しむ眼差しがいっそう緩み、弧を描いた唇が何事かを囁き。そうして深い笑みを残し、二人に背を向け緩く歩き出す。
 その数歩先には、彼らの兄弟子である男と、五百年の長き虚ろを生きた男の姿がある。それぞれに感慨深げな表情を浮かべてこちらを一瞥し、背に添えられた松陽の掌に促されるままに彼らもまた背を向け、霧の向こうへと去っていく。

 師への思慕ゆえにその背を追いそうになるけれど、今や互いに固く強く握りしめた掌が、己自身と相手を引き留めるべく、しっかりと両の足を踏みしめさせていた。
 ジッと強い意志を秘めた瞳が去りゆく師の背を見つめている、その確りとした眼差しを横目で見つつ、銀時もまた彼らを見送るのだった。

 そうして、懐かしい学び舎もすっかり霧の中。風の音も木々のざわめきも絶え、互いの呼吸すら届かないような静寂の中、ただ握った掌の温度だけが確かである。
 先達を見送り、ようやっと緩く顔を見合わせ。

 何事を言うまでもなく、次の瞬間には、ガクリと現に引き戻されるかのように、強制的に意識が途絶えることになるのだった。

***

 ビクッ、と大きく身体を震わせ、まるで夢の階段から突き落とされたような感覚で現に目を見開いた銀時とは対照的に、ごく緩やかに目覚めたらしい高杉の眉尻が一瞬ぴくりと痙攣し、長い睫を震わせて、ゆるやかに両の瞼が持ち上がる。
 銀時の目の前で綻ぶように現れた、朝露に濡れ煌めく若葉のような瞳が、涙になる前の憧憬と切なさと、一滴のさみしさを含んできらきらと輝くよう。
 何者にも代え難いその柔らかな魂の有り様を、息をのんで見つめるばかりの銀時に、その無垢な瞳が淡く笑んで。
「ゲンコツ、貰い損なっちまったなァ」
 戦場ではどこまでも通る意志の強い声音で奮い立つような檄を飛ばすことができるくせに、あらゆる感情を噛みしめて、間近の銀時にしか聞こえないような声音で息を潜めて囁くものだから。
「俺がいるよ」
 するりと、寝起きの掠れた声音がいっそう素直なまでに銀時のこころの内をさらけ出していた。

 お前には、俺がいる。俺に、お前がいるように。
 そうお前も言ったろう?不満とは言わせねェよ、高杉。

 その言葉に、黒々とした睫を震わせ一つ瞬きした高杉の瞳は、間近の銀色を映していっそうきらきらと輝いている。昨晩締め切れていなかった障子の隙間から差し込む朝日に照らされ、微かに眉尻を下げて柔く微笑む、新しい笑顔が鮮烈なまでに銀時の魂に焼き付くよう。
「そうだな」
 たった一言、深く滲むような肯定の色を含んだ声音に、夢現に握り合っていた掌を緩く揺らして。
 続けて何事かを言おうとした唇が一瞬震え、次の瞬間にはハッとしたようにその柔さが仕舞い込まれてしまう。その様を名残惜しく思いつつ、ほぼ同時に気配を察知した銀時も、素早く身を起こし。

「朝餉だぞ!貴様等!いつまでもちちくりあってないで、さっさと起きてこんかァ!!!」
 スパアアアアン!!!と障子を跳ね開けながら、もう一人の相弟子のお出ましである。
「うるっせーーー!!!人聞き悪ィ事言ってんじゃねェ!!!」
「なに。貴様、同衾しておきながら…新八くんも言っておったが、やはり、」
「EDじゃねェ!!!」
 苛立ち紛れに手元にあったものを投げつけてやるけれど、全くどこ吹く風といった態度である。
「糖分は控えた方がいいぞ、銀時」
「よけいなお世話だ!おい、大体ヅラァ、てめェコイツに余計なこと吹き込んでんじゃねェよ!!!」
「ヅラじゃない、桂だ。余計な事とは何…、あぁ、あれか。その様子だと効果は抜群だったようだな?」
 しゃあしゃあと言ってのけ、後半は高杉に向けての問いかけである。
「さぁな」
 ゆるりと身を起こしつつ、スカした面をして喉奥で笑う様が憎たらしい程。
「くっそ、腹立つヤローだな!」
「うるさいぞ、銀時。貴様がそういうの好きだろうと思ってのナイスアシストを…」
「ハァ!?そ、そんなことねーですしッ!!!いいからもう要らんことするんじゃねェぞ!!!」
 なにがナイスアシストだ、心臓止まるかと思ったわ。心底善意ですが何か、とでも言いたげな真顔に、こっちが考えすぎかよと殊更に苦々しく思っていると。
「あ、あの」
 と廊下の方から気遣わしげな声音である。
「そうだ。新八くんがここに呼びに来ても良いものかと遠慮していてな。大丈夫だぞ!せいぜい手を繋いでいた位だ!」
「まっ!お前!ちょっと黙ろうか!?」
 ギョっとして掴みかかるも既に時遅し。
「あっ、手を…」
 言い掛けて、ごほん、と一つ咳払いをして切り替えて。
「え、えー、銀さん。そろそろ本気で神楽ちゃんを止められなくなっちゃいそうなんで、できれば早めにお願いしますね」
 そう言った直後、食事の用意されているであろう広めの客間から、早く食べさせろと迫る神楽に、晋助様がいらっしゃてからに決まってるッス!とまた子が制する大声が響いて来て。
「…おー…」
 素知らぬ振りで支度を進めている高杉を脇目にしつつ、額を抑えてぐったりした声音で返すよりないのだった。