焼肉讃歌

 

「…んん~っ」
 なんとも満足げな声を出しながら喉を反らして豪快に生ビールを呷ったヒロさんが、ぷは、とジョッキから唇を離して、不思議そうに首を傾げた。
「飲まねーの?」
 キンッキンに冷えてて最高だぞ?
 そう促されてようやく目の前のジョッキに意識がいく。
「あ、はい。いただきます」
 ゴクゴクと勢いよくビールを飲むヒロさんの、上下する喉仏をついぼんやりと見つめてしまっていたなんて、気づかれたら流石に怒られてしまいそうだ。
 ひんやりと良く冷えたジョッキに、なみなみと注がれた琥珀色のビール、見るからに細かそうな白い泡は絶妙な割合でグラスの縁から盛り上がって艶めいている。ジョッキに口を付けると、良く冷えたビールの爽やかな苦みが口いっぱいに広がって、ついつい渇いた喉の命じるままに、気づけば三分の一ほどを空けてしまっていた。
「いい飲みっぷりだな」
 にんまりと笑ったヒロさんの手にあるトングが、テーブルの中央に設えられた網の上で左右に揺れる。
 熱々の炭がいくつも入った七輪、その上の網にヒロさんが摘んだお肉を一切れひらりと踊るような軽やかさで乗せた。
「まずはタンな」
 ジュウゥ、と途端に上がった良い音に、さっきのビールですっかり潤った口内に、唾液が滲む。思わずごくりと喉を鳴らしてしまった俺に、益々眦を緩めたヒロさんが、焼けたお肉を次々と俺の取皿と、ご飯の上に放り込んでくる。
「ほい。ネギ塩牛タン、お待ち!」
「あ、ありがとうございます、いただきます」
「おー、食え食え。どんっどん食え!」
 七輪の熱気もなんのその。ご機嫌そのものといった様子だ。
「んんー、んっま!」
 続いて網の上から取ったお肉を頬張るヒロさんの、ゆるゆるの笑顔に食欲を刺激されて、大盛りの炊きたて白ご飯の上に乗せていたお肉をいただく。俺は熱いものがそれほど得意ではないから、ちょうどいい頃合いだった。口の中いっぱいに広がる爽やかな塩気と酸味、薄いながらもしっかりと噛みごたえのあるタンの味わいに感動しながら、もぐもぐと咀嚼して飲み込む。
「すごい、本当に美味しいですね」
「だろ」
「ヒロさんが焼いてくれたから、」
「…ふはっ、ばーか」
 普段こんな事を言えば、何言ってるんだと呆れられてしまうのに、今日はアルコールも入ってるからか、すっかり緩んだ様子で笑い飛ばされて。
 ごく、と再びビールを呷ったヒロさんが、通りかかった店員さんにビールのお代わりを頼んで、再びトングに手を伸ばす。
「あ、次俺が…」
「いーんだよ。俺、結構好きなんだよな、これ」
 かちん、とトングを一度控えめに鳴らしたヒロさんが、まるでいたずらっ子のような顔で笑う。
「次は、っと。カルビいくか!」
 大皿に盛り合わせてあるお肉を選んで網に乗せる傍ら、火力の弱めな周囲に輪切り玉ねぎや、きゃべつ、かぼちゃなどの野菜を配置していく。何かこだわりでもあるのだろうか。二人で食べるスピードに合わせてひょいひょいとお肉を焼いては俺とヒロさん、互いの皿に分けてくれる。カルビ、ロース、ホルモン、レバー。もぐもぐとお肉を頬張ってはビールを飲んで、またトングを振るう。その姿は本当に楽しげで、そんなヒロさんを見ていると、俺もすっかり嬉しくて楽しい気持ちでいっぱいになる。美味しいお肉とビール、ご飯、もちろんそれもだけれど、向かいで食事を楽しむヒロさんの存在があってこそのご馳走だ。
「なーに見てんだ。ほれ、肉焼けてんぞ」
「いえ、ヒロさんが楽しそうだなぁって。今日、何か良いことでもあったんですか?」
 実は今日の焼肉は、事前に約束していたものではない。夕方に突然ヒロさんからメールが届いて「今晩、外で飯でもどうだ?」なんてごく簡単な文面で誘われたのだ。実のところ、この数日というもの連日続く記録的な猛暑のせいで、熱中症の患者さんが続出していて、病院では結構な戦場が続いていたのだが、医者の方が倒れては、ということで偶然にもローテーションで取った休みに上手く当たっていたのだった。
 久しぶりにヒロさんと会えて、食事を一緒にとれる。
 そのことが嬉しくて、疲れなんて吹き飛ぶ勢いで浮き足だって待ち合わせ場所に向かったのだけれど、ヒロさんに促されてやってきたのは、いつものファミレスではなくて、”ちょっと良い”この焼肉店なのだった。お腹を空かせていたらしいヒロさんと俺が、よく飲み、よく食べ、一息ついたところで尋ねてみると。
「あー、いや。別にそういうんじゃない」
「そうなんですか?」
「ここんとこ暑かったろ? 大学も、空調が効いてるとはいえ、やっぱ外の日差しはきついし」
「そうですね、熱中症とか、…は、大丈夫そうですね」
 言い掛ける途中でヒロさんの瞳に咎められる。
「当たり前だろ、俺がンなもんで倒れて示しがつくか、ってんだ。水分、塩分、経口補水液だろ。睡眠もばっちり。あと外では帽子も被ったしな」
「完璧ですね」
「だろ。でさ、こう暑いと、だな。なんつーか、ビール飲みて~! 肉食いてぇ~! って頭んなかそれでいっぱいになっちまって」
 片手に持ったトングをゆらゆらと揺らして、笑いながら言うヒロさんが、喉を湿らせるようにもう一口ビールを含んで。
「だから、特に意味はねーんだけど。…ま、お前の身体空いてて良かったわ。正直ダメ元だったしな」
 いつも仕事の多忙のせいで、それほどゆっくり過ごせる日が多くあるわけじゃない俺たちだ。なんでもない風だけれど、もう俺は知っている。本当は、そうではないってこと。昨年の、あのクリスマスの夜、ヒロさんから直接言われたから。
「…それは、確かに忙しかったんですけど…。でも、ちょうど休みで良かったです」
「まぁな。つか、お前が空いてなかったら、晩メシ焼肉弁当と缶ビールになるとこだったぜ」
「え」
「ん?」
「…いえ、そんなに焼肉に来たかったなら、他の方を誘ったり…」
 しないのかな、と思って…。最後の方はなんだかしおれたような声になってしまう。自分が選んだ仕事で、それは仕方のないことだと分かってて。でも、こういう風に突然ヒロさんが思いついた時に、上手く時間を取れるかといったら、おそらくそうではない事の方が多くて。でも、こんな風に思いがけず楽しく食事ができると、どうしても、思うところがあって。
「…俺、どうしても、仕事で断らなきゃいけない時が多いと思うんですけど…。でも、今日は誘ってもらえて、本当に嬉しかったです」
 ヒロさんが、何かしたいなと思ったとき、一番に俺を誘って欲しい。そう思ってしまうのだ。いつでも、きちんと応えられるわけでもないのに。
「なので、」
「あのさ」
 なんだか、つい言い募るようになってしまった俺の言葉を黙って聞いていたヒロさんに、ちょっと強い口調で遮られる。
「…前も言ったけど。それはマジでいいから。あん時は…、まぁ、ちょっと文句言っちまったけど…」
「はい…」
「つーかさ。お前がもし、俺のことで仕事放り出すようだったら、安心して誘えねーだろ。こいつ仕事ふけてんじゃねーだろうな、って。お前はそんなことしねーだろうし…」
 そもそも、そんな奴、好きになんかならねーし。
 最後はぼそぼそと言ったヒロさんは、決して酔いのせいではない種類の熱で眦を赤く染めていて。ちょっと所ではなく驚いて、息をのんで眼前のヒロさんを見つめるばかりの俺は、気の利いた事も言えず、やっぱり彼の名前を呼ぶことしかできないのだ。
「ヒロさん…」
「っ、な、なーんてなっ!」
 ははは、と照れ臭そうに笑い飛ばして、ゴクゴクとビールを煽り始めたヒロさんのことが、愛おしくてたまらなくて。
「あの、ヒロさん」
「…なんだよ」
「帰ったら、ベタベタしたいです」
 言った途端に、ゴフッ、と飲んでいたビールを吹き出すヒロさんに、さっとおしぼりを手渡す。
「な、なに言って…っ」
 こんな所で。とすっかり動揺して、口周りをおしぼりで拭いながら周囲をきょときょとと見渡しているけれど、この席は仕切られて半個室みたいなものだし、周りはジュウジュウとお肉の焼ける音や楽しい食事の会話、グラスが打ち合わされる音、たくさんの幸せな音であふれている。誰も彼も、食事と、卓を囲む相手との会話に夢中で、俺たちのことなんて気にも留めていない。でもそれはとても素敵なことだ。
 なんだか嬉しい気持ちで微笑むと、一瞬言葉に詰まったような顔をしたヒロさんが、ぎゅっと唇を引き結ぶ。ちょっと何かを考えるような仕草をしたかと思うと、ジョッキの底に残っていたビールをごくごくと飲み干して。
「い、いいぜ」
 こんだけあちーんだ、ベタベタでもなんでもしてやろーじゃねーか、なんて自棄になったように雄々しく宣言するものだから、俺は益々嬉しくなってしまう。
「じゃあ、帰ったら、お風呂に一緒に入って、それから…」
「調子に乗ってんじゃねー!」
「乗りますよ、そんなの」
 テーブルの下で、ヒロさんに脚を蹴飛ばされるけれど、ふにゃふにゃと緩んだ頬は締まりそうにない。だって、ヒロさんが。俺の好きな人が、俺のことを好きだって、そう態度で教えてくれるんだから。
「はい。デザート、何にします?」
 会話の最中、すっかり食事を平らげてしまったので、最後の締めにとデザートメニューのページを開いてみせると、怒って見せていたのが嘘のように、顎に手を当ててじっくり吟味し始めるその姿に益々頬が緩んでしまう。
「んー、シャーベットにしとくか。なんか口んなかサッパリさせてーし。…お前は?」
「じゃあ、俺は杏仁豆腐にします」
 分け合いっこしましょうね、そう言って、返事を待たずにちょうど姿が見えたお店の方を呼び止めて注文をお願いする。反論の余地を与えなかったせいか、注文の間、頬杖をついて顔の火照りを誤魔化すようにそっぽを向いていたヒロさんの、その子どもっぽい仕草が、どうしたってかわいくて仕方がなくて。なのに、俺の不安をいつだって簡単に吹き飛ばしてくれる、すごい人。俺の、好きな人。
 本当に、ヒロさんのことを好きで良かった。
「…なに」
「いいえ、なにも」
 いつか、聞いてみたい。
 俺、あなたのことを大切にできてますか、って。

 でも、俺のつまらない疑問なんてすっかりお見通しのように軽く笑ったヒロさんに、おでこを一つ弾かれて。だから俺はつい都合良く、それが答えだったらいいな、なんて思ってしまうんだ。