「だぁ――っ!」
断末魔もかくや。行き詰まりました、と言わんばかりの呻き声と共に天を仰ぐ。ダカダカとキーボードを叩いていた指の動きは進捗の悪さに比例して徐々に鈍り、文章の前後を行ったり来たりしながら、ついにはピタリと動きを止めてしまった。
ただいま絶賛苦戦中の論文仕事は、納期の差し迫った某文芸誌への寄稿文。厳密に言えば俺の専門でもないのだが、回り回って俺が担当することになってしまった案件だ。
か~みじょお~。なぁ、このとおり! 頼むよ~。
などと手を合わせ、ふざけた泣き真似での宮城教授の懇願に、つい首を縦に振ってしまったのが悔やまれる。年末の差し迫ったこの時期、俺だってそう余裕があったわけではないし。けれど、抱えた論文の提出期日間際にねじ込まれてきた仕事に嘆く、どす黒い隈を作り草臥れた有様を思えば、だな。
とはいえ、それで結局こうして自宅で呻き声を上げる羽目になっていては世話ない、って話だ。
やっぱり断った方が良かったか……と後悔の念に襲われるが、いや、でも一度引き受けたわけだし、視野が広がると思えば。
そう思い直し、続きに取りかかるべくパソコンの画面に視線を戻すけれど、長時間見つめ続けていた所為だろう。目の奥がジン、と重く痺れていて、視界がかすむ。気休め程度に目頭をもみほぐし、グッと背もたれを軋ませて身体を伸ばした後、ぐるぐると頭を回転させれば、凝り固まった首回りがパキポキと不穏な音を立てた。
(駄目だ。完っ全に集中力が切れた)
溜息をつきながら、諦めと共に立ち上がる。腰回りがそれほど妙な凝り方をしていないのは、在宅ワークが推奨される昨今、少々奮発して購入したワークチェア様々ってところか。
「あ、ヒロさん。丁度良かった。お風呂沸いてますよ」
コーヒーでも飲んで気分転換しようかと肩を揉みながら自室を出れば、落ち着いた暖色に満ちたリビングのソファに座った野分が振り返りながらそんな声を掛けてくる。手元に分厚い医学書を開いている割に、随分とくつろいだ様子だ。
俺が適当な夕飯を済ませたときにはまだ帰っていなかったのだが、いつの間に帰宅していたのだろう。
その穏やかな声音と和らいだ表情に出迎えられ、なんだか殺伐としていた気分が凪いでいくような気がする。
しょぼついた目を瞬いて、暫しの熟考。
風呂。バキバキの身体。あと少しというところの仕事。
「ん~……、いやいい。代わりに入っといてくれ……」
「なんですか、それ」
投げやりな俺の言い草を軽く笑った野分が、見るからに重々しいハードカバーの書籍をローテーブルに置いて、こちらへやってくる。ちょっと屈んで俺の顔をのぞき込み、首筋から肩へと凝りを確認するように触れて。
「だいぶ凝ってますね。しっかりお風呂に入って温まった方がいいですよ」
そりゃ俺だってわかってるんだがな、野分。
疲労困憊極まれり、ってところにベタベタしようもんなら、流石にへばってしまうというものだろう。
「ベタベタは、しませんから」
「なぁ、一人で入るって選択肢はねーのか?」
内心の懸念を読み取ったかのように、そんなことを宣った野分のニコリと笑んだ表情ときたら。
もうこれはてこでも風呂へ入らせる気だなと悟った俺は、過重労働で鈍った思考のまま速やかに風呂場へと促され。
俺がやりますよ。代わりに入るのはムリだけど、お手伝いなら出来ますから。
などと殊更に楽しげな様子の野分に身ぐるみ剥がれ、泡立てたタオルで懇切丁寧に洗い上げられた後、浴槽へと沈められた。
「そういえば。今日、冬至ですって」
「あ~、そういやそうだったな」
論文仕事にかまけて、完全にそういった方面に気が回っていなかった。
そう言う野分も、流石に本物の柚子の用意はしていなかったらしい。多少なり疲労回復効果のある物を、吟味し投入したのは柚子の香りをした入浴剤。更に、黄色いアヒルがぷかぷかと浮いている。疲労した視界には柚子に見紛わんばかりだ。
次第にふんわりと香りはじめた柑橘の良い香りに目を閉じる。あまり実感はなかったが、身体が冷えてもいたらしい。ぁあ゛~っ、なんて親父くさい声すら飛び出してしまう。
そうして、頭だけを湯船の外に出した状態で、ぎゅむぎゅむとシャンプーをしながらの頭皮マッサージ。その手指の絶妙な力加減といたわるような手のひらの感触は心地よいの一言に尽きる。美容室もかくや、とばかりの手厚さで俺のシャンプーとリンスを済ませた後、自分は手早く事を済ませた野分が後ろから湯船に浸かってくるが、前言通り一切不埒な動きは見せない。
浴槽の中、すっかりされるがままの俺を両足の間に座らせた野分は、更に首筋から肩の凝り固まった部分を念入りに揉みほぐしてくる。その完全無欠のヘルパーっぷりに、ついウトウトとしてしまうのは、もはや不可抗力というものだろう。
目の上に当てておいてください。と手渡されたホットタオルを顔面に押し当てていた相乗効果もあり、ほかほかと身体が温まり、すっかりと脱力して全身が緩んでくる感覚に、ガクンっと頭が落ちた。
「……っあ、やべ、一瞬寝てた」
湯に突っ伏してしまわないよう、そつなく俺の額を受け止めた野分の、大きな手のひらの内側で瞬きを繰り返す。
「じゃあ、そろそろのぼせてしまう前に、出ましょうか」
うん、と頷いてよろよろと立ち上がる俺がよほど危なっかしいのだろう。脇からしっかりと支えられて完全介護の構えだ。
浴室から出るなり大判のバスタオルで包まれ、ふわふわのタオルで髪の水分をあらかた拭い去っていく野分に、これじゃまるきり子供扱いだな、と流石に着替えは自分で済ませる。
「ヒロさん、リビングで座っていてください」
「んー」
言われるがままソファに腰掛けると、風呂上がりの身体がずっしりと重く感じて、背もたれに深く沈み込んでしまう。尻に根が生えて、なんだかもう、ここから一歩も動きたくない気分だ。ふわ、と遠のきかける意識の片隅で、何やらゴソゴソしていた野分がリビングに顔を出し、ミネラルウォーターのペットボトルを手渡してくる。
「はい、お水飲んでください」
「寝ちまいそう……」
チビチビと手渡されたペットボトルに口を付け、そんな甘ったれた言葉すら零してしまう。
抜かりなく、もう片方の手に持ってきていたドライヤーで背後から髪を乾かされ、至れり尽くせりの大サービスにもはや抗う術もない。
ふわん、と吹き付けてくる温風と丁寧に髪を扱ってくるでっかい手の心地よさに、ガクン、ガクン、と頭が揺れて。
野分、お前これもう、完全に寝かしつける気だろ。
あー……、残りの仕事、明日にするか……。まだ〆切には余裕があるわけだし。
いやでも……。
もごもごと往生際悪くつぶやく俺の意向を聞いているんだかいないんだか。
もういいここで仮眠する、とごねるも、すっかり乾いた頭を好き勝手撫でくり回してご満悦な様子の野分に宥めすかされ、なぜだか野分の部屋のベッドへと沈められていた。けれどもうその頃にはすっかり眠気にぼやけていて、仕事に戻ろうなどとはつゆほども思えず。
なんか俺、すっげーお前にあまえてねーか、これ……。
うつらうつら。とろんだ意識の片隅でそんな事を思えば、口に出ていたものか。
ふふ、と密やかな笑い声が落ちてくる。
お前、なんでそんな上機嫌なんだよ。
「俺、ヒロさんがこんな風に甘えてくれるのって、すごく嬉しいですよ」
や、でもなぁ……。これでも年上としての、だな……。
んン、とむずかるような呻き声とともに、ガキ扱いじゃねーか、などと詰れば。
「子ども扱いじゃないですよ、恋人ですから。それに、疲れているときに甘えてもらえるのは役得っていうか」
どこか誇らしげな照れ笑いを零す野分が、ごそごそと俺の隣に横たわる。そうして、軽く俺の身体に腕を回し、続けて言うには。
「いつも一生懸命なヒロさんだから、こういう所を見せてもらえるのは、貴重ですし。なんていうか、……家族、って感じだなって」
確かに、付き合い出してから歴も長い俺たちだ。
同居期間だって、もう片手の指では足りないくらいなわけだし、恥ずかしながら揃いの指輪だって贈り合っている。そう評したって過言ではない。
でも、思えば、野分がはっきりとそう言葉にするのは、あまりなかったのではないか。
いささかの驚きと共に重たい瞼をこじ開けて見上げれば、常夜灯の微かな明かりの下、漆黒の瞳をやわらげた野分は、まるで気負いのない様子で微笑んでいる。ふいに沸き起こった面映ゆい多幸感に、なんだかぎゅっと胸を掴まれたみたいで、しょぼつく瞳を凝らした。
どうしても、しっかりとその表情を目に焼き付けておきたくて。それなのに、くすぐるように前髪をかき分けてくるあたたかい指先に促され、あっさりと瞼が落ちてしまった。
家族。……家族、かぁ……。
だったら、まぁ。と、ほのかな柚子の香りに包まれた布団の中、傍らのぬくもりにすり寄る。
確かに、そうだな。
墜落するような眠気のなか、そんな同意の言葉を返せたのかは。
一年で最も長いこの夜に、柔く触れた野分のくちびるのみぞ知る。