Nane of Love

 

「はぁ…」
 珍しく野分が在宅の本日。
 野分の帰宅前に風呂を終えてしまっていた俺に、もう一回一緒に入りましょうよ、などとごねるばか者を風呂に押し込んだところである。リビングのソファに深く沈み込み、ため息のひとつもつきたくなるというものだった。

 あのクリスマスの夜からしばらく経つ。
 野分が言った台詞を、つい何度となく思い返してしまう俺なのだが、有言実行とばかりに時間の許す限りベタベタしたがる野分のおかげで、セットでついてくる厄介な意味の方も思い知らされている。そんなわけで、自分でもマジでどうかと思うんだが、どうにも野分のことを意識しすぎて、何となく落ち着かない日々なのだ。

『大切』って、なんだろうな。
 気疲れが過ぎてか、そんな根本的な所にまで立ち返ってしまった俺は、もはや藁をもすがる思いで愛用の辞書を引いてた。そこに記載された内容を何度も熟読したのち、パタリ、と閉じてテーブルの上に置く。
 ベタベタするさま、なんて記載は、当然ながら、無い。
 辞書はなんでも知っている。それは本当だ。
 でも…。 
 ぐぬぬ、喉の奥で呻いて、どうにもならないままならなさに、腰掛けていたソファーの上に横倒しに倒れてしまう。

 俺だって。
 …俺だって、野分のことを大切にしたい。なんて…、思いは、するのだが…。だからって見境なくベタベタする、ってのは、だな…。
 いや、そもそも、野分がそんなふざけたことをほざきやがるから…。
「ヒロさん。あの…、どうかしました?」
 などと挙動不審極まりない俺の態度に、いつの間にやら風呂から上がってきた野分に、心配げな顔で問いかけられてしまう有様だ。
「いや、別に何も…」
「…なく、ないですよね?」
 なんと言っていいものかと考えあぐねた俺の言葉尻を引き継いだ野分に、優しげな声色で、しかしきっぱりと断言されてしまう。決めつけるなよ、と言いたいところだが、流石に自分でも調子が狂いに狂っている自覚は十二分にあるわけで。
 気まずさをごまかすように身体を起こしてソファに座り直すと、待ちかまえていたかのように俺の横にぴたりと寄り添うようにして座った野分に距離を縮められる。寝間着にしているスウェットの上からでも伝わる高い体温を感じると、つい『ベタベタ』って単語が回転の鈍った頭の中を埋め尽くしてしまい。
(だいたい、なんだよ。ベタベタって…)
 少し迷って、こちらからも身を寄せると、一瞬息をのんだように野分の肩が揺れて。
「ヒロさん…」
 甘ったるいシロップに角砂糖をこれでもかというくらいにぶち込んだような声音だ。それこそ、ベタベタしましょうとでもいいたげな。
(ベタベタ。ベタベタ。ベタベタするさま…)

 ハートが乱舞する中、ぎゅむぎゅむと抱き合って…見つめ合って。
「野分(はーと)」「ヒロさん(はーと)」

 反射的に、こんなとんでもない妄想をしてしまう俺は、いったいどうしてしまったんだ。人並み以上にあると自覚はしている羞恥心が瞬時に身のうちで暴れ回って、心臓はバクバクうるせーし、体温は急上昇して頭から湯気でも出そうな勢いだ。ベタベタ。ベタベタ…。くそ。そんなもん…。
「してられっかーーーーーっ!」
 ガターン! とソファーを蹴倒す勢いで立ち上がった俺を、びっくりしたように見上げる野分の、延ばし掛けていた手がゆらりと所在なさげに宙に浮いているが、そんなこと知ったこっちゃない。
「えっと…?」
 カッとなったまま、ビシッ、と音が立つ勢いで野分に人差し指を突きつける。
「だいたい、なんなんだ、ベタベタって。いいか、大切にするってのはな、そういう意味じゃねーんだよっ」
 テーブルに置いていた辞書を取って、野分に突きつける。
「今すぐ! 辞書を引け!」
「あ、はい…」
「いいか、辞書はな、なんでも知ってんだよ!」
「ええと…。た、た、たい…」
 戸惑いつつも辞書を受け取った野分がペラペラと頁をめくり始める。不慣れな様子でさまよう指先がようやく目的の項を見つけたように止まった。
 そこには、先ほど俺が何度も確認したのと同じく、ベタベタするさま、なんて意味は記されていない。指先で辿りながら文字を目で追う野分の意外と長い睫が、瞬きの度に陰を落とす様を上から見るってのも、なかなかないかもしれない。なんて思いながら見守っていると、こちらの予想以上にじっくりと時間をかけて意味を確認していた野分が、ふと顔を上げて。
「本当ですね」
 と、とろけるような笑顔で言った。
 おい、俺は、お前が言うような意味はないんだ、って言った筈なんだが…?
「大切、って…俺にとっての『ヒロさん』ってことです」
「いや、んなこと、どこにも…」
 妙にきっぱりと言い切られてしまい、野分が開いた辞書を逆側からのぞき込む。
「でも、俺の辞書には、ここに書かれているのと同じ意味で『ヒロさん』って書いてあります」
「なっ、なっ…」
 何を言っているんだ? お前は…。
 野分が指さす、そこに記されてる内容と並べて、俺の名前を…。
 再び、辞書に書かれた意味に目を走らせる。
 これ、これを、野分が、俺の事だと…。
 理解が追いついた瞬間、途方もない気恥ずかしさと、なんだかもう、俺の中にこんな感情が潜んでいたのかって、いつだって驚いてしまうほどの喜びがわき上がってきて。
「やっぱりヒロさんはすごいです。ヒロさんの言うとおり、辞書はなんでも知ってるんですね」
 なんて言いながら頷いてる野分の頭を、つい衝動のままに、ぎゅむっと抱き締めていた。わっ、と驚いたような声を上げる野分に顔を見られないよう、しっかり腕を回して、その耳元でそっと呟く。
「俺も…、俺もそうする…」
 大切、の項目は、確かに、イコール野分だ。どんな説明よりも、いの一番に、固有名詞を記したっていいじゃないか。俺の辞書ならば。
 素直に、そう思えた。
「ヒロさん…」
 嬉しげに弾む野分が呼ぶ、俺の名前。そこに、いったいどれだけの意味が込められているんだろう。
「野分…」
 俺が呼ぶ、お前の名前のように。
 背に回された野分の腕にしっかりと抱き返されて、その力強い感触に、ほどけるようなため息がこぼれてしまう。野分の大きくて温かい手のひらが、俺の身体の形を確かめるように、ゆるゆると背中からうなじを辿る。後頭部の髪をくしゃりと撫でる指先に促されるように、胸に抱えていた野分の頭を離せば、見上げてくる野分の黒々とした瞳は、あふれんばかりの愛情に濡れて滴るよう。視界がすっかり潤んでしまっている俺の瞳もまた、同じようにお前に気持ちを伝えられているだろうか。
 吐息が触れるほどにまで迫った野分の瞳が、じぃっとこちらを見つめたままゆっくりと細まって。互いの瞳をのぞき込んだまま、くちびるが触れる。舌を絡めて深くさぐり合っているうちに、いつの間にか野分の膝の上に乗せられていて。あとはもう、情動に身を任せるだけだった。

 *

 ウッカリ気分が盛り上がって、そのままソファーで致してしまった俺たちである。なんとなく離れがたい気がして、行為の余韻が残るままぐったりと野分に身を預けていると、その身体が軽く震えた。
「…ん、なに…」
「いえ、…ふふっ」
「なんだよ…」
 どうしたって嬉しくてたまらないという気持ちがあふれたような笑い声に、伸し掛かったままの身体が揺らされて、なんだか照れくさい。
「俺の辞書、ヒロさんの項目、すっごく分厚いんだろうな、って思って…」
「そりゃ…、そうだろうな」
 形容動詞に、固有名詞を紐付けるような奴だ。だったら、その固有名詞の項は、いったいどれだけの言葉を尽くせば過不足なく説明できるっていうんだろう。文法がダメにしたって、ほどがあるだろ、と、こちらまでつられて笑ってしまう。
「すごい、かわいい、たいせつ…」
「ばか」
 ひとつひとつ、丁寧に上げていく野分に告げる、第一の項目がそれかよ、と思わないでもないのだけれど、すっかり甘くとろけた声音では、世間一般の辞書に記されている罵倒にはほど遠い。どうやら、俺の辞書も、野分のことを言えない有様であるらしい。
「すきなひと、こいびと」
「…うん」
 恋人の項にだって、お前の名前を記したっていい。どうせ後にも先にもお前だけなんだから。そんなことをぼそぼそと白状すると、きょとり、と大きく瞳を見開いた野分が、ぱち、と俺の顔をまるで目に焼き付けるように一つ瞬いて、そうしてゆっくりと笑った。
「もちろん、です」
 おいなんだ? その不敵な顔は。
 わけもなく、腹立たしいような、嬉しいような、そんな気持ちで、ぎゅむ、と鼻をつまんでやれば、少し笑った野分に仕返しとばかりに明確な意図を持って身体を下から揺さぶられて。たったそれだけで、いとも簡単に落ち着きかけていた情欲を煽られた俺たちは、そのまま更なる快楽の底に手を取り合って転がり落ちてしまうのだった。

 新たな辞書を手に入れた上條弘樹が、結局存分にベタベタしてんじゃねーか、という事に気付いて埋まりたくなる翌朝は、まだ遠いようである。